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Lantana

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テレビのスイッチを入れて、パッと出た映画チャンネルの画面。ほとんど全ての登場人物が白人で、英語を話し、家の中の様子や生活様式もだいたい自分と変わらず、また町などの風景もだいたいそのようだ。そんな時は頭が自然に「これは、ヨーロッパかアメリカの現代劇である」と判断して、さてと、と、そのノリで流されようとする。  でも「これ、何かな」という漠然とした感じが、全体から気がつかないほどに臭っていて、それがまた話のスジに特徴があるわけじゃなくて、登場人物のふとした反応だったり、その出来事に対しての対処の仕方だったり、またその家の周りの生け垣の植物だったりすると、そういう要素がどんどんと積もっていって、とうとう止められなくなってくる。  人物の性質を表現するとなると、「怒りっぽい」とか「楽観的だ」などとその人がどういう気質の人か、という風にすると簡単だと思うのだけど、それが例えば「北国生まれの人物」とか「砂漠から来た人物」のように、簡単に説明できるような明らかな特徴がない場合に、見ている側に「なるほど、この人が北国生まれだからだな」と思わせてくれると、微妙なところでドキドキとして楽しくなってくる。それがどんなにありふれた筋でも、ただ「その主人公が北国生まれの人物だから」というだけで突き進んでもきっと楽しい。 でも本当は、そんなことを意図的に映画の中心に据えて面白くさせているということはなくて、ほとんどがその人物達の暮らす国では当たり前のことを描いているはず。だから、その場所のことをよく知っている人には、ごく普通の映画ということになる。 ということで、実はこれは見る人との巡り会いで増してくる面白みということで、自分が偶然自分の知らない世界の日常を見るチャンスに恵まれたということになるので、そう感じたらそれはラッキー。 だけど、自分が知らない場所なんていくらでもあるのに、面白くない部類の映画は、自分の中でその差異を意識することなく見ることができるような気がする。アメリカのことも、アメリカのテキサスのことも、マイアミのことも、マサチューセッツのことも何も知らないで、ずっとここに住んでいるのに、それを意識しないで見ることのできる映画には何があるのだろう?  とにかく、一見いつもの風景でも、だんだんと言葉の違いや、町の感じの違い、そしてその風景の違いに気がつい...

Dead Man's Shoes

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 これは見てよかったなと満足させられるような作品には、ちょうどいい加減で「現実のような混沌さ」が混ぜ込まれている。もちろん、現実みたいに本当に混沌としていたらお話にならないけれど、とにかく、説明されないことがいくつかあるくらいの方が、現実感があって緊張してきていい。  例えば、ある人物がハデな復讐劇を繰り広げるとしたら、その理由自体は単純なものでよしとして、とにかくその経過に何が起こるかによって、ぐっと引き締ってくる。そしてそれは、どちらかというと構造に関わるような大きな出来事ではなくて、小さな出来事を気の利いたタイミングで小出しされる方がいい。ということは、逆に言うと出来事や経緯について説明されていればいるほど、整理されていればいるほど、そして辻褄が合っていればいるほどシラける、ということになる。 ということで、ある程度不要と思われる登場人物は居た方がいいし、意味もない出来事があった方がいい。また、見ていて意味の分からないような人間の行動というのも、現実によくある緊張一つだ。とにかく、そんなことがちりばめられていると、予想を裏切ってくれるドキドキの映画になる。  さて、そうしてみるとこの映画は復讐劇としての展開は鮮やかで、テーマと動機などの骨組みは至ってシンプル、さらに「 お仕置きのバランス度 」も絶妙。その辺がスマートに仕上がっているおかげで、いつも頭の中にある、そんなところでの掛け合いがない。そのすべてが当たり前に感じられるので、あえて「動機は十分か」「辻褄が合っていか」なんてことが全く気になってこない。 その上で、さあこの映画の楽しみは、となったときに、情緒があってかっこいいとか、現実感があって緊張させられる、というもう一段上の楽しみに引っ張り上げてもらえた。  とにかく、風景も、個々の人物像も、出来事も、また場面から場面までの経緯、そして音楽まで、どれをとっても、さりげなくハマっていて格好がいい。またなんと言っても、普通の復讐劇なら、どうしても疑問が残ってしまう、復讐と正義という相反するものの両方が見事に貫かれているオチがいい。 こんな風に、身の回りに居る知らない人達の生活、そしてその中で起こった問題を垣間見るドキドキさ。いつも映画にはそんなことを求めているような気がする。  ところで実をいうと、この映...